奈良原一高のスペインー約束の地  世田谷美術館

世田谷美術館で開催されている「奈良原一高のスペイン」に最終日に見に行く。奈良原一高というカメラマンのことは名前は知っているが、経歴やどんな写真を撮っているのかは知らなかった。モノクロの旅の写真。若い頃から写真に従事して30歳でスペインを旅する。学生の頃からスペイン等に惹かれて研究をしていたとのこと。写真表現は古典なのかブレッソンみたいで、丁寧に旅先の情景を切り取っているのがよくわかる。彼にはスペイン人の気質がよく合うんだろうな。旅をしているとそういう土地に住む人とのマッチングって大事だし、よく撮れたんだろう。まぁ、モノクロの外人はわかりやすくよく映るな。闘牛の躍動感も良かった。俺もシベリアの旅をなんとか再開したいとずっと思っているので、この展示はひとつの参考になった。(エロがないけど、笑)と、デザイナーの勝井三雄という人が映画的表現方法(スローモーション、モンタージュ、観音開き)を用いて、写真集の模索をしていた展示がすごく良かった。ドキドキ度があった。これは暴走族にも使える(笑

ズームイン 朝、ズームアウト 二本柳

この写真を友人から借りてからすでに半年が経った。ブログの更新も出来ずにいたし、モヤモヤして書けなかった。そう、この人は二本柳健。俺が20歳の時にイメージフォーラムで知り合った1つか2つ上の友人だ。いつかの朝にズームイン朝を見ていたら、川の映像ともに「行方不明・二本柳健」という文字が映って、福留さんの声「昨日に群馬県渋川市の利根川で〜」が聞こえた。母親に「あっ?マジかよ、何これ?」って言ったけな。

さてと思い出話し。横浜にまだ実家があってミナト産業という産業廃棄物処理業で働いていた頃に、なにか映像の勉強をしたくて授業料の格安だった映像研究所イメージフォーラムに通ってた。前年に「イメージフォーラム夏のビデオ講座」というものがあって中高の同級生を誘って参加した。ドヤ街の横浜の寿町にビデオを持って怒られながら撮影して、なにかしらの新聞の賞をもらったけな。授業は四谷三丁目の雑居ビルの5階の部屋で色々な実験映像を見る。これが当時の俺には全然わからなかった。8ミリフィルムでなにやら実験している映像達を。空き缶を蹴り続けたりして、???だった。全体的な印象も暗くて当時は退屈すぎた。そこで出会ったのが二本柳だ。いつも古着でパンタロンとか履いていてイカしてた。聞くと北海道から出てきて高円寺に住んでるという。他にFとKとも仲良くなり、授業なんかよりも飲んだり、クラブに行って遊んだりしてた。いつもドアも窓も開けっぱなしの二本柳の高円寺の部屋は商店街の真裏にある風呂なしの4畳半でそこらじゅうに一升瓶の男山が並んでいた。高円寺までよくバイクで行って泊まって飲みまくってたな。

「おはようズブロッカ!!」

起きた瞬間に飲ませるし、飲まされる。当時の遊びで、味なんかどうでもよかったどうせ吐くし。Kが恵比寿駅徒歩5分のボロマンションの2階にアトリエを借りていて、1階が空いたから皆んなで借りないかと言い出した。俺も東京から横浜に帰るのも面倒いし、その話に乗った。Kが最近知り合ったというカメラマン達とも一緒に借りることになった。うちらイメージフォーラム組は映像で、カメラマン達はスチールで何か一緒にやろうというコンセプトで部屋をシェアした。俺は米軍とデパートの廃棄物処理をしてたから、恵比寿の部屋にソファだ特大のブラウン管のテレビだと持ってきた。米軍からは洋ピンのエロ本を。二本柳は飲むと調子に乗って電車の中でションベンしちゃうタイプ。当時はニルヴァーナとかオルタナの音楽が全盛でグランジと呼ばれた汚いのがカッコイイみたいな時代。二本柳は風呂もないし坊主だしいつも同じ古着だし、どっからみてもそっちの兄ちゃんだった。ツルんで遊んで終電で帰れなくなってもまぁどうでもいいっしょみたいな。

そんなこんなで確か1995年の6月位の頃、俺は知らないがどこかの建設現場かで知り合ったちょいと癖があるっていう男と、新潟まで電車で行ってそこから船で北海道に帰省する(映像を撮る)途中に事件は起きたようだ。聞いた話しによると電車の中で酒盛りしてた2人が上越線から見える川に飛び込もうってノリになって、途中下車した。季節は梅雨の頃で川が増水してて、流れが速かったのか2人で飛び込んだはいいものの、二本柳はあっという間に流されて見えなくなった。ツレの男が周辺を探し回ったが見つからず、警察に連絡した。ズームイン朝の情報では捜索隊が50人くらいで1週間くらい探したが見つからず、とのこと。

もう周りは「ハッ?」って感じで、そう色々ともん着があったな〜。例の借りていた部屋を事務所にして名前をgo relax E moreに決めた頃だった。Kはやめるとか言い出すし。結局映像チームなんてなにも始まらず、俺は残ってフィルムも露出も何も分からずに写真の方を勉強し始めた。今思うと二本柳の代わりだ。「お前はどうすんの?」って聞かれて、「やる」って言ったのをなんとなく覚えてる。15年位いたgo relax E moreを去る時も「できることはやったぞ、二本柳」って気持ちは沸いていたかな(笑。でもそういう気概は持ってた。当時の二本柳の彼女(いつもは坊主で夜の飲み屋で働く時はヅラを被ってた美女)が流された川に行きたいと、しかもトラックの平ボディの荷台に、しかも寝袋に入って積み荷として連れてってくれって頼まれて夜中に都内から高速に乗っていった。当時は謎だったけど、いま思うと禊みたいな気持ちだったんだろうな。川に流された男を感じたいみたいな?朝がたに渋川市の聞いてた駅に着いたら、降りるとすぐ川なんだけど民家の庭を通らなければいけない。もうリビングから丸見えの感じ。ゴツゴツとしたデカイ石がある川べりに立ったときに、澄んだ川底をみたら二本柳のいつも吸っていたハイライトがあった。「あっ、マジなんだな。」ってその時に思った。あれからもう23年位経ったが、いまだに現れないな、ズームアウトのまんまか。どこかの駅前でヒデがウッドベースを弾いて、ヤジがドラムを叩いて、お前がトランペットを吹いて遊んだ時が懐かしい。「路上」の著者ジャック・ケルアックに憧れてな。結局お前がニール・キャサディだったんだな。あのトランペットは形見としてずっと持ってたけど、練習する時間もないし去年にKに渡したぞ。


1995


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赤羽の奇跡!政権交代、鳩山内閣誕生!10年前っス。

電車の中で電話が鳴った。「んんっ?東京03だぞ、仕事関係かなっ」と思って空いている車両の中で受けたら、「◯◯◯◯の選挙事務所ですが、お話を聞いていただけたらと思いまして電話させていただきました」と。「あっ?なんで電話番号知ってんの?勘弁してくれよ、電車の中なので切ります」と告げた。そういやいま2019年7月20日、世の中は参議院選挙のようだ。ってことで突然の電話に頭きたけど、昔の事を思い出したので写真を整理してみた。

2009年。それは今振り返ると俺にとっての激動の年だったようだ。師匠の突然の死、写真事務所の創立メンバー(師匠の兄弟子達)との対立の激化、地元横浜のパンクバンドをROLLINGSTONE誌でDUNE編集長の林文浩の連載に掲載。また林さんと同時多発ウラジオストック雑誌掲載。まだなんかあったような気がするが、極め付けは衆議院選挙投票日前日の民主党の鳩山由紀夫氏の遊説4カ所を同行取材するというものだ。仕事の依頼は写真事務所のクライアントが民主党のロゴを作ったとかそんな縁で我々に舞い込んだ。その頃の世の中は自民党に元気が無く、民主党のマニフェストが民衆の心をグッと掴んでいた。高速道路無料化、こども手当、普天間基地問題(最低でも県外)等を掲げていた。もしかしたら、政権が変わるんではないかという風潮のもと選挙前日の2009年8月29日に鳩山代表の4カ所(蒲田、赤羽、中野、練馬)を同行した。こちらはフォトグラファー3人体制で臨んだ。ヨリ、ヒキ等なにが起きても対応できるようにと。まさか人生で選挙のしかも超有名な政治家さんを撮ることになるとは思っていなかったので、場違いにならないように洋服は上下黒にしていたな。(今もそうだけど、笑)4ヶ所の遊説はもすごい人気で人が溢れかえっている、鳩山待ちみたいな。そんななか赤羽でのエピソードがある。

ロケハンはなんと当日で赤羽駅前の遊説現場を見渡すと選挙カーの背後にビルがあった。広告の担当者とそのビルの上層階からカメラアングルを考えながらエレベーターと非常階段で降りていった。俯瞰撮影できそうな場所は7階の場所しかない。ただ遠すぎる、真上からすぎる。一応撮影はするが、厳しいだろうなという諦めの感じだった。ラフも3,4階からの斜俯瞰の構図だった。下町のこれから鳩山代表が来るという異様な興奮状態のなかで、俺は2階付近の非常階段から出番を待っていた。候補者の演説が一段落し、鳩山代表が登場すると周囲のSPやら警察やら関係者の顔つきが強張る。フォトグラファーの仲間が動き出すのをビルの上から確認できた。「太輔、いい場所撮ってんな〜、ありゃ真横じゃね?テレビ映んじゃね?」とか思い、一般の人は普通選挙カーの上に乗る事はできないだろう。応援演説もそんなに時間があるわけではない。俺はビルからの担当だから、7階からの絵から撮り始めた。やはり豆粒くらいにしか写らないなと思い、非常階段で降りていくなかドアの開閉を確認していると、なにやら4階あたりの小さなドアが開いた!あれっ!なんだこのドア!と思いつつ開けて外に出るとこれがちょうどいいアングルだ。まじかよ、遊説丸見えじゃんって!そこから階下を見下ろしていると真っ先にSPと目が合った。さすがVIPのセキュリティーだ。カメラを覗く俺を見ると納得したようだった。自分でもかなり興奮していると、下の担当者がビックリした顔で俺に親指を立てグッドジョブのポーズをしている。そっち側からは俺は丸見えだ。そんななか演説が終わり歩いていると、数人の担当者が鼻息荒く「いや、まさかあの場所から福持さんが出てくるとは思わなかったですよ〜、あの辺りからいい絵が撮れるんだろうなって思ってたので、福持さん!奇跡です!」とガチの握手をされた。全部で15分くらいの出来事だった。俺もいまでもロケハンの時に開かなかったドアが、開いたのには本当にビックリしている。(壊してはいない)当時はノリにのってたのでそんなことで悦にひたってたな。

翌日の投票日の新聞の折り込みチラシで約300万部が配られた。俺の写真のタイトルは「あなたが歴史をつくる」いい感じじゃん〜ってほくそ笑んでた。なんと投票結果は総議席の3分の2を上回る308議席の当選で民主党が勝った。歴史的な瞬間にいたことと、その代表を撮影できたのは俺の人生でも奇跡だ。政治に興味がない俺が首相候補を撮影するなんて、しかもあのドアが開くなんて。打ち上げの赤坂の中華料理屋での関係者のテンションの高さはいまでも覚えている。普段はあまり会わないオジ様達に

「この福持さんが、演説中の鳩山さんの後ろに現れてね〜、いい場所から撮影してくれたんですよ〜」

「ロケハンの時には開かなかったドアが開いたんですよ〜」

なんて言われて知らない人達からどんどんと酒を注がれまくった。しこたま飲まされてスーツの軍団の中で普段着の場違いな俺らがベロベロだったな。

たまにある奇跡。いま思うと確認ミスじゃん(笑

                               民主党広告/2009年8月30日
                       民主党広告/2009年8月30日                   民主党鳩山代表 蒲田遊説/2009年8月29日              民主党鳩山代表 練馬遊説/2009年8月29日
民主党鳩山代表 赤羽遊説/2009年8月29日           民主党鳩山代表 中野遊説/2009年8月29日

リアル ホットロード!家出娘とシャコタンと喧嘩とシンナーの江ノ島。

よ〜うやく形になった。江ノ島のエッちゃんを雑誌に掲載できた。「ホットロード」のモデルの話を。まぁ、2ページ、1000文字位だしほんとに簡単な事しか書けないけど。家出とシャコタンと喧嘩とシンナーの江ノ島。ずっと聞いてきた江ノ島が走れなくなった話。雑誌では書ききれないことを少しここで書こうかな。エッちゃんとはもう25年以上前に山下公園で俺のツレがロカビリーチームで遊んでて、そこで会った。あまり当時のことは覚えていないけど、そんなふうにして当時の遊び仲間になったんだと思う。ヤンキー上がりの独特の雰囲気は他の人に比べてやはり存在感があった。気さくな性格でみんなの人気者だったのを覚えてる。それからは仲良くなってなんだかんだ毎日遊ぶようになった。 あの頃は遊びのジャンルがいっぱいあった。ロカビリー、サイコビリー、パンク、ハードコア、レゲエ、ヒップホップ、スケーター等、乗り物で分けるともっといっぱい。そういうジャンルをミックスした感じの人が面白かった。ハーレーのFLで革ジャンに革パンのセットアップなのに、脱ぐとドレッドでレゲエだったり、そういう感じ。エッちゃんのファッションはその中でも抜群だったな。パンチパーマに鋲ジャンで絵柄が風神と雷神。ハードコアパンチ!とか言って。家に遊びに行くとドラエモンの座椅子に座って紅茶はウェッジウッドの器で飲む。家の壁には菊水の旗とパンクの仲間の写真と印象派の風景の絵が貼ってあるとかで。そう、何年振りかに家に遊びにいくと昔と変わらないインテリアのなかに「映画ホットロード」のポスターがあった。

「あれ、みました?」

「あんな綺麗な話じゃねぇよ、もっと残虐で怖かったよ」

俺が知り合った頃のエッちゃんはもう江ノ島を卒業した後だ。荒れた中学時代を経て、彼は家出して江ノ島に居着く。グラチャンが全盛の頃1986~1989年とか。チャンプロードで企画「湘南グラフィティ」が連載していた頃だ。この企画はまず名前がカッコイイ。図書館で見たけど、毎日のように江ノ島にくる子達を月刊で巻頭連載している。改造車に箱乗りの女の子がピースしているような写真。もちろんエッちゃんはその中心にいた。家出して駅の端で寝泊まりしていくなかで、友人ができて近くのアパートに家出仲間と住む。当時の江ノ島は毎日がお祭りで、夜になると国道134号線が車やバイクのライトで照らされて、ずっと遠くの海岸線まで見えて、それがとても綺麗でいまでも印象に残っていると。そんななか、10代の家出少年と家出少女が恋に落ちて、付き合うことになる。それが「ホットロード」のモデルの2人となったようだ。彼の言葉使いは悪くて、わざと彼女(ハルミ)のことを「おい、ブス」とか「ハルマキ!」とか呼んでいたそうだ。雑誌チャンプロードで江ノ島が注目され、地方からもどんどんとグラチャン族とギャラリーが集まってくるようになる。グラチャン族とは車を改造して、サーキットに行って走んで楽しむ人々。そういった着飾った車(ほぼシャコタン)やバイクが江ノ島のローソン前にくるとエッちゃんが身振り手振りで盛り上げる。それに応える車がエンジンでコールをキッてくる。湘南コールという独自のスタイルも生まれた。一日中そんな感じだったみたいだ。江ノ島が134号線がシャコタンとギャラリーであふれてる。ウンコ座りが格好よくて、シンナーを吸ってナンパする日常。

「シンナーって、歯が溶けるんですよね?」

「シンナーじゃ歯は溶けねぇよ、甘いもの食って歯を磨かないからだよ、まぁ俺の前歯はセラミックだけどな(笑」

だが、ついにそんな江ノ島が走れなくなる日がくる。チャラいイメージがあった江ノ島は「ホットロード」でも描かれているが、流行るにつれて東京から喧嘩目的の輩が襲撃に来たり、族狩りが湘南を怖がらせていくようになっていった。エッちゃんも何度も拉致られたりしたようだ。「俺なんかチャラく見られたんだろうな〜、あいつらマジだから怖えんだよ、まぁやる時はやってんけどな」と。そんななか、決定的な事件が2つ起きた。発砲事件と片瀬江ノ島駅前暴走注意事件という2つの殺人事件で警察は徹底的に江ノ島から車や単車を締め出しにかかる。江ノ島大橋入り口ににゲートが設置されて夜間は入れなくなった。雑誌で流行りになって、輩が大騒ぎして収集がつかなくなって、事件が起きて人が離れていく。そんな江ノ島があったようだ。「漫画ホットロード」の最後は、ハルヤマが和希に向かって「おい、ハルマキ!」と声をかけるシーンで終わっている。

         江ノ島のエッちゃん/ 実話ナックルズ/2019年8月号   レディースが湘南にいた時代/実話ナックルズ/2019年8月号

「さらば、大黒 消える暴走2018」

「大黒埠頭」

強い言葉だ、ほとんどの人が知っている単語だろう。正確には首都高速神奈川5号線の「大黒パーキングエリア」。1989年9月、横浜ベイブリッジの開通と同時にオープンした。バブル絶頂期ということもあり高級車で訪れるカップルが後を絶たず、ドライブデートの定番スポットとなり、クリスマスシーズンには山下公園前あたりから数時間の渋滞が続くのが恒例だったらしい。オープン当時は俺は14歳。その頃は仲間とチャリダーとして自転車のホイールを蛍光色に塗ってたな。ちなみに横浜市鶴見区にある大黒埠頭は母親の地元の地域。工場地帯と漁村のエリア。いまだに近くの商店街では朝一をやってるんじゃないのかと。子供の頃に母親の実家に遊びに行くと当時日本で一番汚い川と呼ばれた鶴見川があり、トタンの家と家の間の路地は貝殻だった。そんなところに巨大な高速道路が出来た。そんな夢のドライブデートの定番スポットはあっという間に輩や不良の溜まり場になっていく。俺の青春も単車だが大黒は目立ちたがりが多く、チーマーとかがアメリカンでヤンキーが族車だったりして、あまり好みではなく第三京浜にばっかりいた記憶がある。第三京浜もすごい数の単車がきていて(しかも速そうな)いつもガキながら羨ましく見てた思い出がある。そんな大黒が20時で閉鎖されるというので実話ナックルズで取材に行くことになった。どこか平塚かな?で知り合ったアメ車のチームの子が大黒によく行くっていうから写真撮ろうよ、って声をかけて当日に待ち合わせをした。

久しぶりに行った大黒は景観は相変わらずカッコ良かったが、音響系と呼ばれるスピーカーを積んだハイエースが前列をしきり、爆音を鳴らしている。目の前のコンビニや飲食は会話できないくらいだ。なんというか、ただの迷惑。音も格好よくないし、一台一台鳴らしていて品評会か?って感じでよく分からない。ローライダーやドリフト系の車が前列に止まっていた方が絵になるしと思ったが、いまはそういう状況なんだろう。編集者が呼んだ地元横浜のローライダーのグループ「BADDAS」が、インパラで跳ねながら集まってきた。これはいつ見ても絵になる。好きな車を仲間で乗って本当に楽しそうだ。ちゃちゃっと撮影を終わらせると時間の20時近くになった。パトカーが数台サイレンと警告を言いながら、駐車場に入ってくる。そして来ている車が解散していく。なんともいえない幕引きだ。聞くといつもこんな感じで「切符切られたら面倒いんですぐ帰ります。大黒はもう終わりっス。」と。

そんな頃に俺が呼んでいた平塚の子達から連絡がきた。

「渋滞で間に合わないっス、すいません」

まぁ、しょーがない。よくあることだ。 BADDAS /実話ナックルズ 「さらば大黒 消える暴走2018」 2018.8.25  BADDAS /実話ナックルズ 「さらば大黒 消える暴走2018」 2018.8.25  BADDAS /実話ナックルズ 「さらば大黒 消える暴走2018」 2018.8.25  BADDAS /実話ナックルズ 「さらば大黒 消える暴走2018」 2018.8.25  BADDAS /実話ナックルズ 「さらば大黒 消える暴走2018」 2018.8.25 BADDAS /実話ナックルズ 「さらば大黒 消える暴走2018」 2018.8.25 「さらば大黒 消える暴走2018」 実話ナックルズ2018年11月号

ほんとSTAY FREEだな、ヤジ。

 

「緑のよ、尻尾の長い鳥がさ、俺に向かって飛んできたんだよ!マジだって、さっきさ!」

「あっ? 何言ってんの?  鳥? んっ、それ俺も前に見たよ。たぶんオウムだべ、この辺で飼ってんのが逃げたんじゃね?」

「オウム??、六本木だぞ?? 何だそりゃ……..、ついに頭がぶっ飛んだかと思ったよ….」

「そりゃそれで調子いいじゃん」

そんな会話を広尾のゲストハウスの屋上でしてた。バックパッカー達と住んでた古い一軒家で大小8部屋くらいあって、それぞれの部屋に2,3人住んでた。だから全部で20人近く。いつも玄関が靴で散乱してた。俺もスウェーデンの彼女と1階の6畳にいた。ヤジはイギリスの奥さんと屋上の洗濯を干す3畳の部屋?(テラス付き)にいた。あいつとは18歳位からの付き合いで、確かライブハウスとかで出会ったのかな、ヒデが連れて来たんだっけな?Sクラブだっけかな?当時良く遊びに行ってたパンクバンドのローディとかやってたな。そんな感じでいつも汚いまぁグランジな格好をしてた、そんでタメだった。20歳になったらどっかに行こうぜってツレと話してて、「ん〜、ジャマイカとかじゃん」とか考えてたのにヤジが「インドだべ」って言い出したを覚えてる。俺らは「インド?なんだそりゃって(笑」。結局、当時の地球の歩き方に載ってたヒマラヤの麓の街(モノクロ1ページ)に20歳の夏に4人で集合をかけた。あいつは当時元町のBARで働いてたから妙な説得力があったしな。

んで、インドのマナリって街に行こうとしたんだけど、川が氾濫してバシストって村で足止めをくらってた時にヒデとマサルくんと八百屋でばったり会った。「ヤジは?」って聞くと「もう出たよ、南に行くって」あっ、そうなんだ、そんなノリなんだな、ここは。って 1994、95年とかだっけかな。

ヤジとは東京に来てもいつも身近にいて遊んでたな。インドで坊主にして3年間切らずに見事な汚いドレッドになったときは、「お前の風下には立たない、枕は貸さない」とか言ってよく笑ってた。いつもやることが大胆不適な行動力で俺は何気にトムソーヤのハックルベリーみたいだなと思ってた。気持ちの優しい奴だったけど、当時の俺たちはどうみても優しいとかいい人とかは思われなかっただろう。

そのうちに何かが噛み合わなくなったのかだんだんと調子が悪くなってたな。真顔でアメリカに治療に行くって言い出して、「パスポートないのに、どうやって行くんだよ?」って、「まぁ、納得できるまでやってみろよ」とか飲み屋で話したのを最後に音沙汰がなかった。周りが何を言おうが小さいこと言ってじゃねぇって思ってた。しばらくして「アメリカで問題を起こして、サンディエゴでムショに入ってる。日本人はほとんどいない、2,3年位で出れると思う」って向こうから手紙が来た。そんなの、こっちにはどうにもできんだろって。南米のゲリラじゃねぇし。その後もヨーロッパでスクワッターをしてるとかいろいろと風の噂があったけど、あいつらしかったしちょっと羨ましかったな。

数年前に電話がきた、昔のように。「おう俺だよ、元気してる?暇?時間ある、いま近くにいるけど会わない?」って感じで。久しぶりに会ったアイツはある意味全然変わってないけど、すごく懐かしくて、すごく遠い気がした。累計11年位ブチ込まれて、随分と大変だっただろう。そのときは俺も子供が産まれて忙しかったし、昔みたいにはもう遊べなかったから、俺からは連絡はしなかった。別れた時のアイツの背中がいまも忘れられない。地下鉄の階段を下りていく残像が。重い、すごく重い、降ろせない荷物を背負っているような、デジタルの時計がバグっているような、あの後ろ姿。俺はただ見ているしかなかった。あの強烈な孤独を。

写真を始めようと思ってスタジオに勤務したときに、初めて買ったカメラで撮った作品。この頃のことはもうあまり覚えていないけれど、毎日何が起こるかわからなくてとにかく楽しかったな。お前が書いてくれた絵も、お前が六本木で拾ってきた自称アーティストの外人のおっさんの訳の分からない絵もいまだに額に入れて飾ってある。THE CLASHのSTAY FREEだな、ほんと。お前は俺の青春だ。あの狂った時期に一緒にいれて楽しかった。いつまでもどこででもお前の思う通りに上手くいくといいな。

     YAJI /1998

 YAJI & DIANE / 1998

YAJI & DIANE / 1998

 

 

ティム!GOOD DAY TO DIE !

昔からよく刺青をいれたいという相談を受ける。
なぜに?俺は一生懸命に隠しているのに見えてるのか?
たしか18でバイクで首都高のフェンスに突っ込んでから、なにかを刺青をいれなきゃっていう気持ちが湧いたのを覚えてる。それまでは刺青?そんなの関係ねぇよ(ふるいな)、だから何?上等だよ、っていう感じだったのに。左手が上がらなくなって、今までのセンサーのような腕の感覚がなくなったのがすごく怖かったんだといまになって思う。なにかで補わなければと。まぁ、その当時は遊びの年上の友達が腕なんかにTATOOを入れていたから身近にあったといえばそんな環境だった。んで、桜木町の彫?(忘れた)ところでワンポイントをいれたな。そん時の気持ちや憧れなんかを文字にして。そこから苦悩?の道が始まるんだが。(和彫は大変、笑)

そんなこんなな思い出が色々とある中で、当時よく行ってた美容師の若い子(ティム)が入れたいと言ってきた。「もう彫師も見つけたんですよ」って、「そうなんだ?でも色々と面倒だぞ〜、場所とか考えた方がいいな〜」とか言って、そんな会話をしてた。

しばらくして、ティムに「どうなったの?」って聞いたら、シャツを脱いだ背中にデカデカと入ってた!「えっ?何て書いてあるの?」って追いかけるように聞くと

「TODAY IS A VERY GOOD DAY TO  DIEっス!!」

満面の笑みで、今日は死ぬのに良い日って意味でインディアンの言葉です。といつもおしゃれな子だったから、以外でビックリした。人間の内面は外見からはわからないな、そういう強い言葉を入れるだけの意志があったんだなって思った。写真を撮ったら、いい顔になっているしね。

そう、最近はファッションで入れない方がいいよ、気持ちで入れた方がいいよって答えるようにしている(笑

 

ティム/2008

 

2019.5.5 こどもの日

アイスがまだ上手に食べられないって、シャツにこぼしたら、ママに怒られるって、笑いながら食べている。

「生きているということ いま生きているということ」

という詩を思い出した。

Itsuki /2019.4

 

風の旅人 14号「自然と人工の律動」

おっしゃ!

重い想いが詰まった腰を上げよう!なんだかよくわからない“大切な何か”を探していかないと。言葉が見当たらないから、写真を撮っていたんじゃないか?って

20代前半は旅に夢中でバックパックを持って色々な世界を見るのが刺激だった。いまではシェアハウスという呼び方に変わったが、当時はゲストハウスといって六本木や原宿にあった外人の旅行者達のホステルみたいな場所に共同生活をしていた。六本木や新宿でホステスやカジノなどの夜の仕事をしてお金を貯めて、次の渡航先に旅立っていく。そういう連中が木造3階建の一軒家に常時20人くらいはいた。その時の友人が「エイスケ、この雑誌が面白いぞ!」って「風の旅人」の創刊号をもってきた。中はチベット族のゲルの写真が印象的で、これスゲーなと言って歓談してたのを覚えている。スタジオも経験し、師匠のアシスタントも卒業して何らかの仕事をしていた頃だったと思う。師匠(女性)の影響もあってずっと風景を撮っていた。ただ自分の中でこうだ!これだ!という感覚はあっても、人に言葉で伝えることができないまま撮り続けていた。おっしゃ!友人の手前もあるし、営業に行ってみるか!と「風の旅人」に電話をかけた。たしかユーラシア旅行社という名前の場所だったと思う。その当時自分がカッコいいと思う風景写真を持って、永田町の編集部に向かった。当時はほんと何も考えないで(笑 写真を見てくださいって勢いで編集長に会いにいった。50枚くらいの四つ切りのプリントを持って。編集部には巻頭の白川静の文章をモニターでみていた忙しそうな編集長がいた。「これはどういう意図で撮影してるの?」当たり前の質問に俺は何も言えない。「いや地元とか気になったところとかを….撮ってます」としか言えない。「自然が好きなの?」とか言われても別に考えたことないし、山岳部だったような気がするけど高校の時の暇潰しだし。といって黙っていたら、なんと編集長が「素晴らしい!なんとかページにしよう!」って言ってくれた。俺は心の中でヨッシャ!!そしたら「よし、この写真に文章を書いてくれ!」って頼まれた。

自分「はっ?文章なんて書いたことないっす」

編集長「この本屋を紹介するから、まず日野敬三という作家の本を読みなさい」

編集長「そしたらこの写真を預かるから、後日に連絡します」

と多分20分くらいだったと思う。帰りは写真を預けたから、丸腰状態で本屋のアドレスだけを持っていた。当時の所属写真事務所に帰り、「褒められたぜ!」とかいって酒を飲んで大騒ぎしていたのを覚えてる。教えられた日野敬三の本を数冊買って読んだら、テーマは「都市と自然」という事だった。撮影するなかで自然とか都市とかを意識したこはなかった。見た事ない場所や好きな場所、いつも行く場所とかを撮影していただけだ。高校の時から産業廃棄物業者でアルバイトをしていたからか、廃棄物とか工場がもう日常だった。その辺が自分の原風景に近いのかもしれない。数週間後に編集長から連絡があった。『「自然と人工の律動」っていうテーマをつけたから、文章を書いてくれ』と。???だ!だいたい律動って何?辞書をひくとリズムって書いてあるし、リズムといえば…. そうだパンクだ!地元の横浜のパンクバンド「PILEDRIVER」の歌詞を書かしてもらえばいいんじゃね?とか思って四苦八苦して提出した。

「見えているのか あの光 聞こえているのか この騒ぎ 臭っているのか この悪臭 感じているのか 深い傷 腐っていても始まらない 感じているぜ俺達は M.Y.B.C  PILEDRIVER 」

この歌詞がとても自分の中ではまった。郊外というか新興住宅地、歓楽街、雑踏、廃墟、路上、岸壁、高速道路、廃棄物、ガソリン臭、漆黒な海水、等と過ごした時間に。草木の緑なんて意識したことがなかったけど、そこには確かに繁茂した自然があった。

いま思うと編集長はすごく写真を理解してくれてたんだと思う。ずっと心に引っかかってるし、掲載されたのは本当に嬉しかった。いまでもなんだかよくわからない“大切な何か”があるんだろうって、ずっと思って撮っている。

 

                            daiba yard / 2018.11

 

                           風の旅人 14号 / 2005

 

 

 

 

 

 

 

 

シリーズ 俺の粋

実話ナックルズの巻末の連載「シリーズ 俺の粋」が2018年11月号で終了した。2018年8月から写真を担当させてもらったのですが、いま思うと面白い撮影が多かったな。「粋」っていうのは言葉で言い表すものではなく、「感じるものだ」ということがこの連載で勉強になりました。古いもの新しいものに限らずこだわりをもって「物」に接しているその姿勢に「粋」を感じるのだろう。

2018年10月号の「彫り物」では中学の同級生であり、いまでも付き合いの深い彫健氏に取材をお願いした。彼はもう23年のキャリアを持つ和彫師であり、手彫りを生業としている(機械は使えない)ので繊細な仕事をしている。仕事柄でこわもてに見えるがとても気さくな男であり親しみやすいが、仕事のことになると職人魂を感じさせる。そんな彼の話で印象に残っている言葉があります。

「粋を語っちゃ、粋じゃねぇ」

8月号の「特攻服」では現役暴走族の松仁會が登場してくれました。集合場所の駅で待っていると「いまから迎えにいきま〜す」との連絡が爆音とともに聞こえた。いやいや、ノーヘルで単車にのって数台で迎えにきちゃダメでしょ。こちらは車なんだし、信号は守りましょうね。個性的な刺繍に漢気を感じました。

9月号では「ニッカポッカ」でバンドマンであり解体職人のライライさんが工場跡地でバッチリと決めてくれました。「○○市のさんま」の異名をとるほどの喋りが上手な彼は地元のキャバクラでもモテモテのようでした。さすがの見出しは「今、女遊びは超超ロングが1番モテる」です。海外にもニッカポッカを履いていくというそのこだわりに、外国人が憧れて日本に買いに来ていると思っています。(笑

11月号は「セットアップ」、オフィス北野所属の芸人さんガンビーノ小林さんが真紅のガルフィで決めてます。取材ではついにあの実話ナックルズかぁ〜って嬉しそうでした。男臭さを感じる彼に年季の入ったガルフィはトレードマークになってます。知る人ぞ知るガルフィはある意味喧嘩上等の証しとかで、イケてる男しか着れなかったそうです。

物が溢れるこの時代に古き良きものを大事にするその生き様が「粋」を感じるのでしょう!(まとめ過ぎやな)

実話ナックルズ 2018年8月号 「シリーズ俺の粋 現役暴走族 松仁會の特攻服」

実話ナックルズ 2018年9月号 「シリーズ俺の粋 リアライズドラマーライライのニッカポッカ」

実話ナックルズ 2018年10月号 「シリーズ俺の粋 文身師 彫健の彫り物」

実話ナックルズ 2018年11月号 「シリーズ俺の粋 芸人ガンビーノ小林のセットアップ」