「さらば、大黒 消える暴走2018」

「大黒埠頭」

強い言葉だ、ほとんどの人が知っている単語だろう。正確には首都高速神奈川5号線の「大黒パーキングエリア」。1989年9月、横浜ベイブリッジの開通と同時にオープンした。バブル絶頂期ということもあり高級車で訪れるカップルが後を絶たず、ドライブデートの定番スポットとなり、クリスマスシーズンには山下公園前あたりから数時間の渋滞が続くのが恒例だったらしい。オープン当時は俺は14歳。その頃は仲間とチャリダーとして自転車のホイールを蛍光色に塗ってたな。ちなみに横浜市鶴見区にある大黒埠頭は母親の地元の地域。工場地帯と漁村のエリア。いまだに近くの商店街では朝一をやってるんじゃないのかと。子供の頃に母親の実家に遊びに行くと当時日本で一番汚い川と呼ばれた鶴見川があり、トタンの家と家の間の路地は貝殻だった。そんなところに巨大な高速道路が出来た。そんな夢のドライブデートの定番スポットはあっという間に輩や不良の溜まり場になっていく。俺の青春も単車だが大黒は目立ちたがりが多く、チーマーとかがアメリカンでヤンキーが族車だったりして、あまり好みではなく第三京浜にばっかりいた記憶がある。第三京浜もすごい数の単車がきていて(しかも速そうな)いつもガキながら羨ましく見てた思い出がある。そんな大黒が20時で閉鎖されるというので実話ナックルズで取材に行くことになった。どこか平塚かな?で知り合ったアメ車のチームの子が大黒によく行くっていうから写真撮ろうよ、って声をかけて当日に待ち合わせをした。

久しぶりに行った大黒は景観は相変わらずカッコ良かったが、音響系と呼ばれるスピーカーを積んだハイエースが前列をしきり、爆音を鳴らしている。目の前のコンビニや飲食は会話できないくらいだ。なんというか、ただの迷惑。音も格好よくないし、一台一台鳴らしていて品評会か?って感じでよく分からない。ローライダーやドリフト系の車が前列に止まっていた方が絵になるしと思ったが、いまはそういう状況なんだろう。編集者が呼んだ地元横浜のローライダーのグループ「BADDAS」が、インパラで跳ねながら集まってきた。これはいつ見ても絵になる。好きな車を仲間で乗って本当に楽しそうだ。ちゃちゃっと撮影を終わらせると時間の20時近くになった。パトカーが数台サイレンと警告を言いながら、駐車場に入ってくる。そして来ている車が解散していく。なんともいえない幕引きだ。聞くといつもこんな感じで「切符切られたら面倒いんですぐ帰ります。大黒はもう終わりっス。」と。

そんな頃に俺が呼んでいた平塚の子達から連絡がきた。

「渋滞で間に合わないっス、すいません」

まぁ、しょーがない。よくあることだ。 BADDAS /実話ナックルズ 「さらば大黒 消える暴走2018」 2018.8.25  BADDAS /実話ナックルズ 「さらば大黒 消える暴走2018」 2018.8.25  BADDAS /実話ナックルズ 「さらば大黒 消える暴走2018」 2018.8.25  BADDAS /実話ナックルズ 「さらば大黒 消える暴走2018」 2018.8.25  BADDAS /実話ナックルズ 「さらば大黒 消える暴走2018」 2018.8.25 BADDAS /実話ナックルズ 「さらば大黒 消える暴走2018」 2018.8.25 「さらば大黒 消える暴走2018」 実話ナックルズ2018年11月号

ほんとSTAY FREEだな、ヤジ。

 

「緑のよ、尻尾の長い鳥がさ、俺に向かって飛んできたんだよ!マジだって、さっきさ!」

「あっ? 何言ってんの?  鳥? んっ、それ俺も前に見たよ。たぶんオウムだべ、この辺で飼ってんのが逃げたんじゃね?」

「オウム??、六本木だぞ?? 何だそりゃ……..、ついに頭がぶっ飛んだかと思ったよ….」

「そりゃそれで調子いいじゃん」

そんな会話を広尾のゲストハウスの屋上でしてた。バックパッカー達と住んでた古い一軒家で大小8部屋くらいあって、それぞれの部屋に2,3人住んでた。だから全部で20人近く。いつも玄関が靴で散乱してた。俺もスウェーデンの彼女と1階の6畳にいた。ヤジはイギリスの奥さんと屋上の洗濯を干す3畳の部屋?(テラス付き)にいた。あいつとは18歳位からの付き合いで、確かライブハウスとかで出会ったのかな、ヒデが連れて来たんだっけな?Sクラブだっけかな?当時良く遊びに行ってたパンクバンドのローディとかやってたな。そんな感じでいつも汚いまぁグランジな格好をしてた、そんでタメだった。20歳になったらどっかに行こうぜってツレと話してて、「ん〜、ジャマイカとかじゃん」とか考えてたのにヤジが「インドだべ」って言い出したを覚えてる。俺らは「インド?なんだそりゃって(笑」。結局、当時の地球の歩き方に載ってたヒマラヤの麓の街(モノクロ1ページ)に20歳の夏に4人で集合をかけた。あいつは当時元町のBARで働いてたから妙な説得力があったしな。

んで、インドのマナリって街に行こうとしたんだけど、川が氾濫してバシストって村で足止めをくらってた時にヒデとマサルくんと八百屋でばったり会った。「ヤジは?」って聞くと「もう出たよ、南に行くって」あっ、そうなんだ、そんなノリなんだな、ここは。って 1994、95年とかだっけかな。

ヤジとは東京に来てもいつも身近にいて遊んでたな。インドで坊主にして3年間切らずに見事な汚いドレッドになったときは、「お前の風下には立たない、枕は貸さない」とか言ってよく笑ってた。いつもやることが大胆不適な行動力で俺は何気にトムソーヤのハックルベリーみたいだなと思ってた。気持ちの優しい奴だったけど、当時の俺たちはどうみても優しいとかいい人とかは思われなかっただろう。

そのうちに何かが噛み合わなくなったのかだんだんと調子が悪くなってたな。真顔でアメリカに治療に行くって言い出して、「パスポートないのに、どうやって行くんだよ?」って、「まぁ、納得できるまでやってみろよ」とか飲み屋で話したのを最後に音沙汰がなかった。周りが何を言おうが小さいこと言ってじゃねぇって思ってた。しばらくして「アメリカで問題を起こして、サンディエゴでムショに入ってる。日本人はほとんどいない、2,3年位で出れると思う」って向こうから手紙が来た。そんなの、こっちにはどうにもできんだろって。南米のゲリラじゃねぇし。その後もヨーロッパでスクワッターをしてるとかいろいろと風の噂があったけど、あいつらしかったしちょっと羨ましかったな。

数年前に電話がきた、昔のように。「おう俺だよ、元気してる?暇?時間ある、いま近くにいるけど会わない?」って感じで。久しぶりに会ったアイツはある意味全然変わってないけど、すごく懐かしくて、すごく遠い気がした。累計11年位ブチ込まれて、随分と大変だっただろう。そのときは俺も子供が産まれて忙しかったし、昔みたいにはもう遊べなかったから、俺からは連絡はしなかった。別れた時のアイツの背中がいまも忘れられない。地下鉄の階段を下りていく残像が。重い、すごく重い、降ろせない荷物を背負っているような、デジタルの時計がバグっているような、あの後ろ姿。俺はただ見ているしかなかった。あの強烈な孤独を。

写真を始めようと思ってスタジオに勤務したときに、初めて買ったカメラで撮った作品。この頃のことはもうあまり覚えていないけれど、毎日何が起こるかわからなくてとにかく楽しかったな。お前が書いてくれた絵も、お前が六本木で拾ってきた自称アーティストの外人のおっさんの訳の分からない絵もいまだに額に入れて飾ってある。THE CLASHのSTAY FREEだな、ほんと。お前は俺の青春だ。あの狂った時期に一緒にいれて楽しかった。いつまでもどこででもお前の思う通りに上手くいくといいな。

     YAJI /1998

 YAJI & DIANE / 1998

YAJI & DIANE / 1998